1  芋虫


           
           山根建造(55)山根建設社長・元陸軍中尉
           
            花田美代子(30)山根建設事務員・山根の愛人
           
             神尾秀作(50)労務者・元陸軍少尉
           
              林   勇(  )陸軍大尉・中隊長
           
               加藤好助(  )陸軍二等兵

                        ――終戦60周年記念書き下ろし――




   芋虫の夢――。

   いつも、この夢に魘されて眼を覚ます――。
  
   無数の芋虫が――。

   尻の真っ赤な芋虫どもが――、身体の上を這い回る夢だ。

  

   *  *  *  *  *


   見渡す限りの大海原である。

   その海上に、ちっぽけな救難ボートが一隻、揺れている。
 
   十数人の兵隊が、ボートの縁にしがみ付く。

   揺れるボートの上には将校が3人。
  
   山根中尉と神尾少尉、そして中隊長の林大尉。
  
   林大尉は軍刀の鞘尻で、山根中尉は三八式の銃把を振るう。

   ボートに這い上がろうとする兵隊どもを、海中へ小突き落しているのだ。

林大尉「離れんか馬鹿者!皇軍の兵ならば、自力で泳げ!泳いで日本へ帰らんか!」

山根中尉「救難ボートといえど、御旗を掲げる限り軍の本陣である!下がれ!無礼者めが!」

   194X年7月X日―未明。

   日本軍・兵員食料輸送艦隊は、米中連合軍の魚雷を受け、東シナ海において全滅した。

   駆逐艦、巡洋艦を含め三九隻が海の藻屑と消えたのだった。

   顔面を血に染めて、溺れ掛けた兵隊の一人が叫ぶ。

加藤二等兵「お願いであります!自分は金槌なんであります!自分もボートに乗せて頂きたいであります!」

   揺れる舟床で、神尾小尉は日章旗を掲げ抱き、怒鳴り付ける。

神尾少尉「馬鹿者!この菊水の御旗が見えんのか!御旗は即ち天皇陛下である!貴様のごとき雑兵が、陛下と居所を同じゅうするなど、許される筈もないわ!」

   加藤二等兵は肱を船縁に掛け、胸まで這い上がって訴える。

加藤二等兵「雑兵といえども、我々も陛下の一兵卒であります!」

神尾小尉「えい!黙れ!たわけが!」

   神尾小尉は日章旗の竿尻で、加藤二等兵の胸元を突きこくる。

   加藤二等兵がその竿尻にしがみ付く。

神尾小尉「放せ!放さんか!」

   瞬く間に数人の兵隊が、必死の形相で旗竿に取り付いた.

   「がはっ!」「げほっ!」溺れ掛けの兵隊どもは、死に物狂いだ。

   溺れる亡者どもに引き裂かれる日章旗。

山根中尉「ああっ!なにをするか!」

林大尉「この罰当たりの非国民めが!」

   軍刀を抜き払い、林大尉は加藤二等兵に打ち下ろす。

   「ぎゃっ!」
   
   刃を受けた加藤二等兵は、眉間を押え、もんどりうって水中に呑まれていった。

林大尉「貴様ら、菊水の御旗をなんと心得るか!」

   逆上した林大尉は、白刃を打ち振るう。

   ボートの縁に取り付く兵隊たちの手指を、手当たりしだいに叩き飛ばす。

林大尉「貴様らが皇軍の兵とは片腹痛いわ!虫けらどもめが!」

   「ぎゃあ!」「ぐへえ!」

   手指を飛ばされた兵隊は、次から次と、鮫の渦巻く水中へ没してゆく。

   阿鼻叫喚――。大海原のただ中で、地獄絵図が繰り広げられている。

   舟床に散った兵隊どもの指は、三人の足元を朱に染める。

   自らも返り血に染まりながら、林大尉は叫ぶ。

林大尉「陛下の御身代わりとなる、菊水に殉じるのだ、ありがたく覚えよ!」。

   林大尉の怒色にたじろぎ、神尾少尉はその真っ赤な舟床にへたり込んだ。

  

  二十年後――。

   終戦後の混乱期を経て、近代都市へと復興を遂げた東京――。

   その中心地の一角に山根建設のビルは建つ。

   その五階――山根の自室――。

   ピンクに灯る、五燭玉の電気スタンド。

美代子「いもむし?」

   山根の腕の中、情事の余韻を残したまま、けだるそうに美代子は聞いた。

美代子「そうゆえばゆうべ、随分と魘されてはったわ・・・?」

   肌掛けをたくし上げ、山根は首の辺りを拭い、

山根「ああ、芋虫だ。何百、何千という芋虫が、俺の身体の上でのたうち回る夢だ」

美代子「初めてやの?」

山根「いや、昔からだ。暫く見なかったのだが、このところまた見るようになった」

美代子「トラウマと違いますやろか」

山根「俺はウサギ年じゃけ。トラでもウマでもない」

美代子「心的外傷ゆうて。記憶の中の傷が、ストレス障害とならはって、現れはるのんよ。干支の話と違います」

山根「占いならごめんだ」

美代子「れっきとした精神医学の学説どす。もっとも、夢を見はる程度なら障害という程では・・・。そうやわ、占いもええわね。タロットで見てあげまひょか」

   美代子はうつ伏せになり、枕元のタロットカードに手を伸ばす。

山根「そんなもの、寝床にまで持ち込みおって」

美代子「夢も馬鹿なりまへん。正夢とかゆいますやろ。予知夢ともゆいます。それとも、社長はお肉がお好きですやろ、野菜もたんと摂らんとゆう、神様の思し召しと違いますやろか」

山根「ふん。なにを言うか」


   仰向けになって、煙草に火を点ける山根。

   柱時計が時を打った。

   窓の向こうが白み掛かっている。

   カードを繰りながら、美代子はいたずらっぽく、

美代子「あらまあ。珍客現る、ですやて!」

山根「珍客?」

   うつ伏せに身を翻し、山根は煙草を灰皿で揉み消した。

美代子「もしかしたら、今夜あたり、トラウマの大元はんが、お見えになりはるのかも・・・」

山根「ふん、そうか?」

美代子「これが社長のカードですやろ、こっちが芋虫のカード、そしてこのジョーカーが・・・あ・・・」

山根「珍客のう・・・」

   山根は這い登るように、美代子の白い背中に被さりながら、

山根「なにも夜まで待たなくても、珍客なら・・・」

美代子「あ、いややわ、ついさきほど、あれほどに・・・」

山根「ほれ、このように、ノックの用意はできてるぞ・・・」

美代子「あ・・・」

   美代子の肩を抱きしだき、山根は腰をスライドさせた――。

  

   夜――。

   一階の山根建設・事務所。

    一升瓶の載ったテーブルを挟んで、山根と神尾が湯呑み酒を啜る。

   夕暮れの窓から望める国立代々木競技場――。
   
   数ヶ月後の東京オリンピックに向けて、突貫工事に入っている。

   帰り支度をした事務員姿の美代子が、ドアの前に立った。

山根「開けたままで構わんよ。いい風が入る」

美代子「お先に失礼します」

   山根と神尾に丁寧なお辞儀をして、美代子が事務所を出て行った。

   首を巡らせ、少し好色そうな眼で後姿を追う神尾。

   頬の緩みを残したまま、振り返って山根の顔色を試す。

   山根ははぐらかすように、

山根「何年ぶりじゃろか」

   神尾、笑いとも、溜息とも取れる吐息を漏らし、

神尾「林大尉の葬式以来ですからね。7年、ですか」

山根「林さんは残念なことをしたのう。これからというときに」

神尾「復員して13年。それだけ生きれば儲けものじゃあないですか。本来ならばA級戦犯で――」

山根「で、商売のほうは?・・・」

   話しを遮って、山根は一升瓶を神尾の湯呑みに傾ける。

神尾「片田舎の土木工事など知れてますよ。半端な補修工事くらいしかー」

   湯呑みをぐびりと呷り、「回っちゃきません」

山根「悲観するな。日本経済はこれからだ。なにしろ焼け野原だったこの東京で、オリンピックが開かれるんだからな」

神尾「オリンピックですか。林大尉の置き土産ですな」

山根「林さんには建設省の引きがあったからな。うちはささやかな下請け仕事をもらっただけだ」

神尾「ささやかな、ね。先日の新聞、読みましたよ。夕日新聞でしたか。中尉殿のインタビュー記事が載ってました」

山根「ああ、あれか。新聞もしつこくて、弱ったもんだ」

神尾「下請けとはいえ、山根建設は基礎工事の筆頭業者じゃあないですか」

山根「大げさな。せいぜい一本程度の仕事よな」

神尾「ところで林大尉の死因をご存知ですか?」

山根「心不全と聞いた。その大尉というのはよせ。戦争はとうの昔に終っとるんだ」

神尾「大尉は・・・、呪い殺されたんですよ」

山根「馬鹿め。何を言うか」

神尾「――中尉殿は見ませんか?――芋虫の夢を――」

   山根の手から湯呑みが滑り、足元で二つに割れた。

   気にも留めぬふうに、神尾の視線は山根の背後の窓から動かない。

山根「ちゅ、中尉はやめろと言うとろうが・・・」

神尾「あの夜、東シナ海で魚雷をもらって――」

山根「その話はよせ!」

神尾「沈没する間際、あなたは三八式を、わたしは日章旗を身体に縛りつけ、林大尉は――」

山根「神尾!」

神尾「そして、われわれは真っ黒な海に投げ出された」

山根「よせと言うとろうが!」

神尾「九死に一生とはあの事ですな。運良く救難ボートに辿り付いたのは奇跡と言っていい」

山根「もういい。やめい!」

神尾「あの時、あなたを引揚げた兵隊を、憶えていますか?」

山根「・・・」

神尾「加藤二等兵です」

山根「貴様・・・」

神尾「次いで加藤二等兵は、林大尉を引っ張りあげ、わたしを助けた――」

山根「・・・」

神尾「その加藤二等兵を、あなたはボートから突き落としたのです」

山根「それは林大尉の命令よ!」

神尾「それどころか、林大尉とあなたは、救難ボートに縋り付く兵隊どもを、片端から海に蹴り込んだ」

山根「貴様!」

神尾「わたしはあの時ほど、菊水の御旗をありがたく思ったことはありませんよ。そう・・・あなた方がわたしを拾ってくれたのは、わたしが日章旗を身体に縛り付けていたからに他ならない」

山根「黙れ!」

   立ち上がる山根に、神尾は淡々と言葉を継ぐ。

神尾「さらに執拗に取り縋る兵隊に、あなたたちは軍刀と銃剣で、片っ端から――」

山根「お、お前も同罪ではないか!」

神尾「わたしも、あなたの命令に従ったまでですよ」

山根「語るに落ちるとはこの事だな。貴様、俺を脅迫しようと言うのだな」

   陰にこもった神尾の視線は、山根を正視することはない。

   少し屈んで、神尾は足元から三尺余りの細長い新聞包みを掴み上げる。

   それを、ごとり、とテーブルに載せた。

神尾「全ては林大尉の――、こいつが語ってくれるでしょう」

   神尾が麻紐を解くと、古新聞の中から一振りの軍刀が転がり出た。

   予測していたように、

山根「これが貴様のやり方か・・・」

神尾「林大尉が亡くなる寸前、わたしに預けた物です。しかしこの持ち主は、わたしより中尉殿の方が相応しい」

山根「言うてみい。なんぼ欲しい?五万か、十万か」

   神尾は答える代わりにニヤリと唇を歪め、立ち上がって踵を返した。

   「待て!」山根は先回りし、後ろ手にドアを閉めた。

   ――山根の左手には林大尉の軍刀が握られている――。

   猫背をいっそう丸くし、神尾は山根を押し退け、ドアノブに手を掛けた。

神尾「これから新聞社に行くのです。――あなたのお気に入りの夕日新聞にね」

   山根の右手は軍刀の束を握り締める。二十年振りの感触である。

山根「いいだろう。神尾。貴様にも仕事をくれてやる。こっちを向けい!」

   思わず振向いた神尾の額に、山根は目にも留まらぬ一太刀を浴びせた。

   「ぎゃっ!」

   もんどりうって、神尾は部屋の中央に倒れこむ。

神尾「ちゅ、中尉・・・」

   慄き、振り仰いだその顔面に、縦に真っ直ぐ、朱の一筋が滲み出る。

   山根は居合いの有段であった。

山根「貴様を国立競技場の基礎に埋めてやろう。人柱が貴様の最後の仕事よ」

   山根の眉間は獲物の動きを捉えて放さない。

   一瞬の動作。

   山根は再び鯉口を切りながら踏み込んだ。

   「ひええっ!」テーブルを横倒しにして、神尾は山根の凶刃を避ける。

   構わず、山根はテーブル越しに刃先を突き入れ、瞬時に引き戻す。

   刀身に血糊を付けぬ呼吸である。

   「ぐええ・・・」テーブルの陰で断末魔の呻き声――。

   手応えを得て、山根は刃に鞘を被せた。

   ややあって、血飛沫を浴びたテーブルに、向こう側から血塗れの片手が掛かった。

   もう一方の手も震えながらテーブルの縁を掴む。

山根「しぶとい奴め・・・」

   やがて覗くであろう、真二つに割れた、神尾の顔――。

   山根は軍刀を水に構える。横殴りで頸を飛ばすつもりだ。

   しかし。

   テーブルの向こうに現れたのは、神尾ではなく、加藤二等兵――、
 
   二十年前、東シナ海で鮫のエサとなった筈の、加藤二等兵であった。

加藤二等兵「中尉殿・・・、お忘れでしょうか。加藤です。同じ中隊で、可愛がって戴いた二等兵の加藤です――」

山根「き、貴様!加藤!ち、血迷ったか!」

   加藤はテーブルの向こうにいるにも関わらず――、

   乗り出すように、血みどろの顔を寄せて来る。

   生きる者の動きではない。

山根「ええい!くたばれい!」

   一閃、二閃、しかし山根の軍刀は空を切る。

   邪念を払うように首を振り、山根はテーブルの向こうに目を凝らす。

   加藤は依然テーブルを抱えて、こちらを見据えている。

   山根は鞘を投げ捨て、素早い摺り足で踏み込む。

   気合一声、大上段から振り下ろす。

   白刃は、加藤の五指を刎ね飛ばし、テーブルに食い込んだ――。

   


   ――開け放しの暗い窓から、重機の操業音が入ってくる――。

   国際競技場の突貫工事は、夜間も間断なく続く。

   肩で息をつきながら、山根は血の海にへたり込む。

   鼻先では神尾が両腕を抱え込み、目を剥いたまま息絶えている。

   神尾の死体をぼんやり眺めていると、何やら動くものが眼の隅に映った。

   ――指だ――。

   山根に切り飛ばされた、加藤の――、
   
   いや、神尾の手の指が、数本、生に名残りを惜しむのか、そこここで蠢いているのだ。

   その肉片に呼ばれたかのように、窓枠を越えて、ぽとりと床に落ちたものがある。

   振向いて山根は総毛立った。

   それもまた人間の指だったから――。

   しかも一本や二本ではない。

   何十本もの指が、窓枠を越え、次々とこちら側に落ちてくる。

   窓の向こうで――、加藤二等兵が、山根を見ている。

   恨めしげな眼――。

   加藤だけではなかった。

   数十人の兵隊どもが、窓枠も狭しと犇めき合って、こちらを見詰めているのだ。

山根「うお、うおおお・・・」

   悲鳴を上げるどころか――、

   山根の身体は硬直して動けない。

   その足元から、指どもが、山根の身体を登ってくる。

   何十何百という指が、関節を器用に屈伸させて、山根の身体を這い登ってくる。

   くねくねと、身をうねらせて、あたかも青菜の葉を這う、芋虫のごとく――。

                          <了>
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         ――この作品はフィクションで、登場する個人名・団体名は全て架空のものですーー