10 夕陽の漫才師シリーズD
「さかりつく漫才師」
土屋五郎(30)漫談家
夕焼け太郎(50)腐乱骸骨
お茶の水博士(50)人工細胞研究所所長
礼保田たまこ(22)テレビレポーター
夕焼けはえる(35)漫才師
萌子(33)その妻
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遠く六甲山を望む住宅街の一角。
時代に取り残された風情の小さな町工場――。
処どころ剥げ落ちたモルタルの壁に、サビ鉄色の表札は――。
――「お茶の水 化学研究所」――
その表札の前で、土屋五郎は溜息を吐いた。
肩からはフィッシング用のクーラーボックスが提げられている―。
五郎「はーあ…、わが国屈指の人口細胞の研究所いう話しやが、ほんまかいな…」
恐る恐る五郎は玄関の引き戸に手を掛けた。
ガタピシと踊って、引き戸は開く。
開いた途端、中から、
「ぎゃん!ぎゃん!う〜〜!ぎゃん!ぎゃん!」
待っていたかのように、いきなり小型犬が吠え掛かってきた。
五郎「うわ!なんやねん!しっ、しっ!」
犬「う〜、ぎゃんぎゃん!う〜、ぎゃんぎゃん!」
小さめな子豚ほどもあろうか、まるまると肥えたチワワらしき犬。
その背後に男が現れ、犬を叱る。
「しっ、しっ!あほんだら!お客さんに吠え付いてどないすんねん!」
男もまたデップリと太っている。――所長の、お茶の水博士である――。
五郎に愛想よく話し掛けてきた。
お茶の水「すんまへんなあ、躾けが行き届いとらんよって、しょもないやっちゃ。あ、こら、すな!すなて、こら!」
犬「ハへッ、ハへッ、ハへッ」
犬がお茶の水の片足にしがみ付き、交尾の動作を始めた。
忙しない腰の動き。
お茶の水「すな!やめれ!ちっとは場所をわきまえんかい!」
お茶の水の片足は犬を振り解くべく、宙を蹴る。
お茶の水「すんまへんなあ、で、注文はなんやったかいな。こら、すな!すなて!」
五郎「いや、その」
お茶の水「すなて!あほんだら!まあええわ、二つ三つサンプル並べるさかい、見たったって。これ!すなて!」
五郎「サンプル?…」
研究所といっても、内部は段ボール箱とビニール包装の山――。
ほとんど商品倉庫の体である。
お茶の水「すなて!あほ!わしかてお前と同じオスやねんぞ!」
お茶の水は踵を返し、段ボールの谷間を犬を引き摺りながら抜けて行った。
お茶の水「すなて!これ!あほんだら……」
五郎は見送り、不安そうに腕を組む。
五郎「ほんまにあれが人口細胞の権威なんかいな…」
奥の方から、お茶の水の怒鳴り声と犬の悲鳴が聞こえる。
お茶の水「ええ加減にさらせ!飼い主に発情する犬が、どこにおんねん!この、どエロ犬が!」
犬「きゃいんきゃいん、きゃい〜〜ん!」
奥に研究室があるらしい。
薬品めいた臭いが微かに漂ってくる。
ほどなく、犬からも開放され、お茶の水が戻って来た。
長細いビニール包みを両手で抱えている。
それを五郎の前の、テーブル代わりの段ボール箱の上に、慎重に横たえた。
お茶の水「新製品だっせ。“シブヤ系堕天使ジョンベネちゃん”いうねん」
五郎「ジョ、ジョンベネちゃん――」
お茶の水「まあ見たって。ちびらんとき。テッシュなら後ろや。わは?ジョークやジョーク。ええか、開けるで」
お茶の水、もったいぶった手付きでビニールを解く。
やや小ぶりのダッチワイフが現れた。
悩ましく濡れた黒い瞳、そそるような半開きの真っ赤な唇――。
お茶の水「どや。わが社が総力を結集して開発した自信作や」
五郎「いや、その、あんなあ…」
お茶の水「可愛い顔しとるやろ?いらってみい。遠慮せんでええ。むしゃぶり付いたって。この柔肌。吸い付くで。まとわり付いて絞り尽くすで。ブラ、取ってみ。ええから、ほれ。なに照れとんねん」
五郎「違うねん、社長、そうやのうて…」
お茶の水「下の方がええか?パンツ下ろしてみ。ビーナスの丘、拝んだったって」
少し顔を寄せ、声をひそめ、
お茶の水「ここがこの娘の売りや。むせぶでえ。若草の茂みに鼻突っ込んだったってえや」
五郎「せやからなあ、違うねんて…」
お茶の水「人毛や。ほんまもんの恥毛、植え込んどんねん。堺あたりうろついとる女子高生から陰毛買い付けて、それ植え込んどんねん。クラミジア、感染しても知らへんど。わは?ジョークや、ジョーク。しっかり殺菌消毒しとるがな。安心し!」
五郎「待ったってえな…」
お茶の水「見い。薄毛や。薄毛の方がええやろ?まるきりパイパンゆうのももの足らん。指、入れてみい。どや?もっと奥まで入れてみいやて。濡れとるやろ?ここがこの娘のスケベエなとこや」
五郎「スケベエなんはあんたの方やろ。せやのうてな、社長―」
お茶の水「シリコンや。これこそが当社の開発した新機能シリコンだんねん。乾燥しとっても濡れとるようなシットリ感。人工潤滑液とはもうおさらばや。ちょっとの水分でオーケーや。唾液をほんのり乗っけたったらええ。掃除機の吸引口にあてがうようなもんや。向こうの方から吸い付いて来よる。ちんちん千切れても保障しまへんで。わは?ジョークや、ジョーク」
五郎「あんなあ…」
お茶の水「なんやね、気に入らんのかいな。顔かいな。顔の好みは千差万別やからのう。可愛い子ちゃん系よりも美人系かいな。五月みどりなんぞ、どや。マニア系なら天地真理タイプもあるで」
五郎「違うねんて。社長、きょう伺ったんはなあ―」
お茶の水「清純系はあかんか?汚ギャルは、どや?ごっつうガングロの。股ぐらに合成恥臭液かましてあるさかい、うっかり臭ったら引っくり返るで。わしは平気やけどなあ、蓄膿症やさかい」
五郎「あ!あんた蓄膿か!」
お茶の水「え?ま、まあのう…」
五郎「なんや、蓄膿症か!どうりでなあ」
お茶の水「な、なんやね、どうりでなあて。しかもまた、どこに食い付て来よんねん…」
五郎「蓄膿とは好都合やわ。とにかく、これ、見たってえや――」
ようやく取り付く島を得た。
ジョンベネちゃんを押し退けると、五郎は段ボールの上にクーラーボックスを載せた―。
昼下がりなのに室内は薄暗い。
段ボールの山が窓の大方を塞いでいるからだ。
お茶の水「また、えらいもん持ち込んで来よったなあ」
五郎「このクーラーボックス、開けて見せるのん、あんたが初めてや。たいがいその前にもんどりうって逃げ出しまんねん。蓄膿とは、こら好都合やわ」
お茶の水「蓄膿、これだけ重宝がられたんも初めてやがな。せやけどほんまにこの大将、なんや、その、生きとるんかいな」
クーラーボックスの中、広口瓶の蓋の下で、ホルマリン漬けが口を開く。
夕焼け太郎「ブクブク、生きるのんがこれほど辛いとは思わなんだったわ、ブクブク」
お茶の水「唇もろくにあらへんのに、器用にしゃべるもんやのう。しかし頭の部分しか見当たらんようやが、胴体の方はどないしてん?」
太郎「ブクブク、あんまり邪魔臭いさかい、リストラしたったんじゃ」
ブクブク、ブクブク――。ホルマリン溶液の中で笑う半骸骨。
腐り掛けの眼球が、出たり引っ込んだり、でんぐり返ったり。
五郎「で、本題なんやが、どないにかなるもんですやろか?」
お茶の水「うちの研究所で不可能なもんはあらへん。あの“人体の不思議展”かて、うちの技術提供があってこその成果や」
五郎「ほんまかいな」
お茶の水「しかし、おまはんが土屋んとこの息子はんとは、気が付かなんだわ。ところで親父さんはどないしてん。劇場、えらい騒ぎやったんやてなあ」
五郎「恥ずかしい話しですわ。あのドサクサで親父のやつトンズラこきましてん。ほうぼうに借金こさえた揚げ句、こちらの夕焼け師匠の生命保険まで持ち逃げしよったんです」
お茶の水「しゃあないわ。人間ええ時もあれば、しょんない時もある」
五郎「あのアホ親父も、よう一緒のこと言うとりました」
太郎「ブクブク、五郎やん、そないに引け目に思うことないで。あれほど面倒見のええ席亭はおらん。魔が差したんじゃ。芸人であの人を悪く言う者ン、おらんやろ。ブクブク」
五郎「おおきに…、師匠、おおきに…。ほんな訳で、せめてもの償いにと、師匠を元の格好に戻してくれはる人を探して、あっちの大学病院、こっちの医療研究所…」
お茶の水「無茶やがな。で、どないやった?」
五郎「どこも門前払いですわ」
お茶の水「当たり前や。おまはんの親父とは、学部こそ違ごうたが大学の同級生や。なんで真っ先にわしのとこ、来えへんねん」
五郎「なんちうか、その…、親父の言うとった人体標本とダッチワイフが、ようよう結び付かんかったんですわ」
太郎「ブクブク、あんなあ五郎やん。わしはのう、このまんまでかまへんねんど。今さら立派な身体が欲しいなんぞ、よう思わん。もともとおのれで絶とうとしとった命や。今さらなんの欲しいもんもあらへんがな。ブクブク」
五郎「師匠…」
太郎「それにや、ブクブク、このホルマリンな、なかなか居心地がええねん」
お茶の水「またその、ホルマリンの中でよう喋りよるわ。息継ぎ、どないしてん。エラ呼吸かいな」
五郎「本人が言うのには、本人が言うのには、だっせ、なんでもマラーズ法いうのを使うとるんやそうです」
お茶の水「マラーズ法て。ほんなん、妊婦の呼吸法かなんかと違うんかい」
太郎「ブクブク、それこそ、お母やんの胎内に戻ったような心持ちや。ブクブク、ブクブク」
五郎「とにかく、このままでは、わての気持ちが済まんのですわ。萌子姉さんや、はえる兄さんにも申し訳が立たん。なにより死んだ福やんが浮かばれん」
太郎「人間なんの為に生まれて来よんね。ブクブク。おのれの価値を高める為やろが。高めてどないする訳でもない。高めること自体が生きる意味なんや。福やんかて、そうや。つまるところ、おのれの信条通りに生き通せたら、それでええやないか。ブクブク」
五郎「し、師匠…」
お茶の水「なんやら奇っ態な景色やで。腐れ骸骨と売れん芸人の哲学談義かいな。しかもここ、どこやねん。大人のオモチャの製造所だっせ。見い、ジョンベネちゃんもアクビしとるがな。もっともこの娘のアクビは、退屈のせいだけやあらへんけどな。わは?わはは?」
五郎「ジョンベネちゃんもええねんけどな、社長…」
お茶の水「わかっとるがな。で、なんや、とにかく、この大将、わしに任せてくれへんか?たった今、ええアイデアが閃きよってん」
五郎「ほんまでっか、社長、いやその、博士!おおきに!おおきに!わ!わ!なにさらしよんねん!しっ!しっ!すな!こら!すな!」
犬が五郎の片足にしがみ付き、激しく腰をスライドさせている。
犬「ハヘッ、ハヘッ、ハヘッ」
お茶の水「この色ボケ犬、誰かれ見境い付かんようになってもうてるわ。アホやなあ。なに考えとんねん」
五郎「うわ!しっ、しっ!なんとかしたって。これ、すな!すなて!しっ、しっ!」
太郎「ブクブク、しかしなんやのう、こんなザマになって初めて気ィ付いたわ。犬も人間も、考えること、やること、さほどの違いがあるもんでもないのう」
ブクブク、ブクブク――。
笑い続けるホルマリン漬け――。
犬の腰スライドは激しさを増す。
犬「ハヘッハヘッ、ハヘ――ッ!ハヘ――ッ!」
五郎「しっしっ!すな!すな!すな―――っ!」
生きる者と生かざる者。
それぞれの思いを知ってか知らずか、窓の隙間から望める六甲山は、初夏の夕日に暮れなずむ――。
下町の、安アパートの一室。
女と男が、一杯の洗面器を挟んで寝転んでいる。
洗面器の中で握られた、女の右手と男の左手。
それぞれの手首から流れ出る血液が、張られた水を少しずつピンク色に染めてゆく。
そして枕元に、一匹きりの金魚鉢――。
萌子「あんた?」
はえる「なんや」
萌子「まだ起きとるん?」
はえる「薬、古かったん違うか?あんだけ服んだいうのに、ちょっとも眠たならんで」
萌子「ごめんな。新しい睡眠薬、買お思たんやけどお金が足らんで。しゃあないから、剃刀、買うて来た」
はえる「なんやら、まだるっこいのう。手首の血管ゆうても、もちょっと深く切らんとあかんのと違うか?」
萌子「ええやないの。昔話なぞしながら、ゆるゆる逝こうやないか」
はえる「しかしなんや、漫才ブームゆうても、あっちゅう間やったのう」
萌子「うちらにも、ようやく風が吹いて来たんやろか、思たがなあ」
はえる「遅かれ早かれ、わいらはこうなる運命やったゆうこっちゃ」
萌子「福ちゃんには可哀そうなことしたなあ。うち、あの子のことは一生忘れへん。ほんま、気の毒したわ」
はえる「忘れるも何も、もうちょっとしたら会えるがな。三途の川の向こう側でのう」
萌子「五郎ちゃんはどないしたかな?なんやか、うちの社長の始末、押っ付けたようで夢見が悪いわ」
はえる「湖で心中しよ思たときは、幸か不幸か、社長のお蔭で死にそびれたんやったなあ」
萌子「幸か不幸か、て。バチ当たるで。いっときとは言え、いい思いしたやないの。夕焼けトリオで劇場、連日、満杯にしたやないの。トリオやないわ。福ちゃんもおったさかい、なんや、四人はなんや、カルケット言うんかいな。まあなんでもええわ。でも、こんどだけは覚悟せなあかんなあ。しかしな、あんた、怪ったいな話しと思わんか?とっくに死んだ人間を追い越して、うちらが先に逝くんやで。あの世でうちらが社長を待っとる言う形になるんや。ほんまに世の中、どうなってるんやろなあ。なあ、あんた。あんた?あんた?あんた!寝たらあかん!」
はえる「やかましのう。何のために睡眠薬服んでんねん」
萌子「ああ、びっくりしたわ。死んだんかと思たがな」
はえる「お前なあ、そないにこの世に未練があるんやったら、もっぺんその辺り散歩して来たらどうや」
萌子「なに言うとるん、あんた。うちらは一心同体や。うち一人では、どこへもよう行かん」
はえる「どや、眠たなるまで、最後にもうひとつ、せえへんか?」
萌子「もう、あんたったら…、さっき薬服む前に三回もしたやないの…。でも、ええよ…」
はえる「あほ、ネタ合しや」
萌子「なんや、そっちか」
はえる「ネタ合ししとったら、またぞろ社長が現れたりしてのう」
萌子「あんた、期待しとるんか?」
はえる「期待ちゅうか、なんやらもっぺんあの腐れ顔、見たなってのう」
萌子「あ、そや!あんた、テレビ点けたって!奥さまワイドの時間や!」
はえる「どうかてええやないか」
萌子「あんた、早よ!都市伝説探検隊、始まってまう!」
はえる「なにが都市伝説や。しょうもない」
はえる、片足を伸ばし、その親指で14インチのスイッチを押す。
はえる「あたたた、ふくらはぎ、攣ったわ」
画面に女性レポーターの姿が映し出される。
右手にマイクのレポーター、左手のこぶしを高々と突き上げ、
礼保田たまこ「たまこの、都市伝説探検隊―――っ!」
萌子「探検隊――っ!」
萌子もこぶしを突き上げる。
はえる「あほかいな」
たまこ「きょうもきょうとて探検隊、ずいぶんと遠くにやって来ました。兵庫県は、へっぽこ町、六甲山脈のふもとです」
萌子「珍しなあ、あんた、関西ロケやて」
はえる「ええがな、どうかて」
たまこ「きょうの都市伝説はびびります!聞いて驚け老若男女!」
はえる「どんなキャッチフレーズや」
たまこ「人面犬です!この町に人面犬が現れたのです!」
萌子「聞いたか、あんた、人面犬やて!」
はえる「消すで。ええか?」
萌子「待ったって!これ見な、死に切れん!」
たまこ「なんとその人面犬、近所のメス犬というメス犬を、手当たり次第に犯し回っているのです!」
萌子「へえ!ひどい奴っちゃ!」
たまこ「しかもですよ」
萌子「しかも?」
たまこ「しかも、その狼藉は白昼堂々、飼い主の目前で繰り広げられるというのです!」
萌子「ほら許せんで。悪い奴っちゃ」
はえる「ふあ〜あ。すまんな、お先やで…」
画面は被害者へのインタビューに替わる。
愛犬を抱いた中年男性。
中年男性「とつぜん、塀を飛び越えて来よって、庭で遊んどったチャッピーに圧し掛かり、いきなりピ――してやで、ピ――をピ――した思たら、それこそ機関銃のような腰振りでんがな」
たまこ「いきなりですか」
中年男性「止めるひまもないがな。このガキ!言うて縁側から飛び降りたら足がもつれて、このザマじゃ」
男性の肘には痛々しい擦り傷、片足はギプスに包まれている。
愛犬を抱きしめ、そして頬ずり。
中年男性「チャッピーたん、守ってやれんでほんまにごめんやでえ、お父ちゃんを許してなあ、チャッピーたん。お〜〜いおいおい…」
画面、たまこのアップ。
たまこ「被害はこちらのチャッピーたんだけではありません。判明しているだけでも毒牙に掛かったメス犬は、20匹前後に上ると見られています――。しかも!」
萌子「しかも?」
再び中年男性。
中年男性「わしな、この年んなるまで、あんだけびびったの初めてや。その暴行魔な、普通の犬やないねん。ああ、いま思い出しても身の毛がよだつわ…」
たまこ、アップ。
たまこ「そうです…。その連続暴行犬とは――あろうことか、人面犬だったのです――」
萌子「ほんまかいな…」
首を竦め、襟元をしごく中年男性。
中年男性「それも普通の面相やないねん。あれ程おぞましいつら構え、今までわし、見たことないわ。う〜ぶるぶる…」
たまこ「被害犬の飼い主さんは、ええ加減にさらせ!と言って、持っていた湯呑みを暴行犬に投げ付けました。しかし、命中したにもかかわらず、そのピストン運動はさらに激しさを増し、振り返ったその顔は、人間と呼ぶのもおぞましい、奇怪極まる形相だったのです。そのうえ!」
萌子「そのうえ?」
たまこ「そのうえ、その暴行犬は、関西弁で、飼い主さんにこう怒鳴ったというのです――」
萌子「ど、どないぬかしよったん」
たまこ「ど阿呆!湯呑みなんぞより、さくら紙でも放ったらんかい!」
萌子「ひえ〜〜〜っ!なんちゅうやっちゃ!あんた、聞いとるか?ちょいと、あんた!あんた?」
萌子は真っ赤な洗面器の中で、握ったはえるの手を揺す振る。
はえるの鼾が徐々に不規則になってきた。
萌子「あんた…、ほんまに逝ってまうつもりか…?なんやか、うちも、ちから、入らんようなってきた…。なあ、あんた、約束、しよ。もっぺん生まれて来たら、また、一緒になろうな、なあ、あんた…」
萌子は洗面器の手を止め、はえるの肩に自分の顔を乗せた。
テレビの画面はスタジオに切り替わる。
たまこがレポートデスクの上に数枚のフィロップを構えている。
たまこ「それではご覧下さい。これが人面犬、凶行現場の生写真です!」
萌子「写真、あるんか。…なんやなあ、もう、人面犬なんぞ、どうかてええわ…」
映し出された1枚目は、メス犬を犯しながらこちらを振り向いている人面犬。
2枚目はその人面犬のアップ。
―――「ん?」それを見て、萌子が弾かれたように身を起こす。
萌子「じ…人面犬やて?…」
画面に噛り付き、かすれ声で叫んだ。
萌子「社長!社長ですやんか!」
洗面器を溢れた液体が、雨戸の隙間からの日差しに、黒々と光っている。
萌子「なにしてますのん?社長、なんで、人面犬ですのん?なにしてはりますのんや、社長―――」
ちゃぽーん――。
金魚鉢の中、何を思ったか、金魚がくるりと宙返りを打った――。
<了>
23・3・7改